地面の底の病気の顔
萩原朔太郎
地面の底に顔があらわれ、
さみしい病人の顔があらわれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌(も)えそめ、
鼠(ねずみ)の巣が萌えそめ、
巣にこんがらがっている、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視(み)え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらわれ。
詩集『月に吠える』
※ふりがなと現代かなづかいを用いました。
萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)
明治19年(1944年)ー17年(1942年)
日本の詩人。55歳没。
萩原朔太郎との出会い
あなたは本屋さんの店頭で動けなくなったことがありますか?
幸せなことに、私はあります。それが私と、この詩との、そして萩原朔太郎との出会いです。
私が「萩原朔太郎」と出会った場所は、福岡市最大の繁華街にある大型書店の店内でした。
この「地面底の病気の顔」という詩は、本棚からたまたま手に取った『萩原朔太郎詩集』(新潮文庫)の中に収録されていたのです。目を通した瞬間、私は動けなくなりました。
私は思いました。これが、教科書に名前が出てくる萩原朔太郎なのか…。これが詩というものなのか…。なぜ今まで一度も朔太郎を読まなかったのだ…。少年ジャンプは欠かさず読んでいたのに…。
当時まだ若かった私は、ショックのあまり、『萩原朔太郎詩集』(新潮文庫)の序文から、最終ページの「乱丁・落丁本は、ご面倒ですが小社読者係宛ご送付ください。送料小社負担にてお取替えいたします。」まで、店頭でそのまま一気に立ち読みしてしまいました。
そして読み終わると、その本を買って帰りました。
あまりに気が動転していた私は、動作の順序を誤ってしまったのですが、そのあいだ終始、体が小刻みに震えていたのを覚えています。
私が書店で手に取った『萩原朔太郎詩集』は、「朔太郎の代表的詩集から厳選した名編を収録」したものでした(文庫カバー裏の文章より)。その一番最初に収録されていた作品が、「地面の底の病気の顔」だったのです。
この詩は私にとって、萩原朔太郎の世界への案内人なのです。
地面の底の病気の顔って、なに?
「地面の底の病気の顔」は、最初に発表されたときは「白い朔太郎の病気の顔」というタイトルだったそうです。のちに、このタイトルの一部が改められて「地面の底の病気の顔」になったわけです。
「地面の底の病気の顔」は、彼の代表作である『月に吠える』という詩集の冒頭にあらわれる作品です。映画で言えば、オープニングのシーンですね。
そう、映画のスクリーンでたとえるなら、きっと次のような感じでしょうか。
まっくらな映画館の、まっくらなスクリーンの中に、青白いものが、ぼんやりと浮かび上がる。それがだんだん、はっきりしていき、目、鼻、口のかたちがあらわれ、やがてさみしい病人の顔になる。
たましいを病んだ詩人・萩原朔太郎(さみしい病人)の登場シーンですね。
これからぼくのせかいがはじまるよぉ~
という、さみしくて、消え入りそうな声が、聞こえてくるような感じです。
『地面の底の病気の顔』とは、そんな詩なのかもしれません。
なお、前掲の新潮文庫の解説で、河上徹太郎さんは以下のように書かれています。引用文中の「氏」とは萩原朔太郎のことです。
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
これは氏の全作品を一貫する主要動機である。
『萩原朔太郎詩集』(新潮文庫)
なるほど。そういうことなんですね。
『萩原朔太郎詩集』の世界
この詩集の目次から、収録されている詩のタイトルをいくつか挙げてみましょう。
地面の底の病気の顔
酒精中毒者(よっぱらい)の死
内部に居る人が畸形な病人に見える理由
くさった蛤(はまぐり)
その手は菓子である
艶めかしい墓場
くづれる肉体
その襟足(えりあし)は魚である
猫の死骸
おどろおどろしく、あやしげな、このラインナップに目を奪われますね。
いや、もちろん朔太郎さんは、タイトルだけで読者を驚かそうなんて思ってはいないでしょう。本当に中身がすごかったのです。
どのように、すごかったのか。それを、こと細かに言葉で説明することは、おそらく不可能だと思います。
それを説明することは、この詩集が私に引きおこした感情を説明することになるからです。
朔太郎さんは言います。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易のわざではない。
この場合には言葉は何の役にもたたない。
そこには詩と音楽があるばかりである
『月に吠える』序より
しかし、私は書きたいのです。そこで、あえて断片的に言葉で表すと、次のような感じになるのかもしれません。
ここがスゴいよ!萩原朔太郎が読まれる5つの理由
- その感覚の、病的なほどの鋭さ
- ふしぎなリズムがもたらす美感と陶酔的気分
- 時として、死病にかかったカミソリが、いきなり切りつけてくるような怖さ
- 春の夜に聴く横笛の音色のような、艶めかしい情緒
- 悪魔よりもなお孤独な魂
すいません、書き方で、ちょっと遊びました。(しかも、絶対5つ以上の理由があるし)
話を戻しますと、当時の私は思ったのです。詩ってこんなふうに、こんなことを書いてもいいんだ。この詩人は大正時代に、こんな斬新な詩を書いていたんだ。
しかし、病気、病人って、どうしてそんなに出てくるんだろう。てか、「地面の底」って、どこ?
朔太郎さんが描き出す詩の世界は、私がそれまで詩に対して抱いてたイメージとは、あまりにかけ離れていました。
「自分はまだ詩を全然読んでないし、わかっていない。たくさん読まなくては!」
若かった私に、そう思わせてくれたのが、萩原朔太郎の詩の世界だったのです。
朔太郎さんの言葉
萩原朔太郎さん
詩とは感情の神経をつかんだものである。生きて働く心理学である。
詩は人間の言葉で説明することのできないものまで説明する。詩は言葉以上の言葉である。
詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
『月に吠える』序より
きっと、朔太郎さんにとって、「詩」とはこのようなものだったのでしょうね。
まるで、「病気」に対する「手当て」のような存在なのでしょう。このことを彼は、文字通り以下のように語っています。
私たちはときどき、あわれな子供のような、いじらしい心をもって、部屋の暗い片すみで、すすり泣きをする。
そういうとき、ぴったりと肩に寄りそいながら、ふるえる私たちの心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がいる。
その看護婦の乙女が詩である。
『月に吠える』序より
ああ、『月に吠える』の序文っていいなあ。少しでも関心を持たれた方には、ぜひとも読んでいただきたいと、私は心から思います。
「猫」 ー 詩集『月に吠える』より
最後に、高校の教科書でもおなじみの詩を一篇、ここに置いておきます。
詩集『月に吠える』に収録されている「猫」という詩です。
ゆううつな夜に、屋根の上で会話をする二匹の黒猫の詩ですね。
春の夜に、発情期の猫たちが、薄気味の悪い声で鳴き声を上げることが、よくありますよね。
二匹の黒猫が、あのような声で会話をしていると思って、読んでみてください。
猫 萩原朔太郎
まっくろけの猫が二匹、
なやましいよるの屋根のうえで、
ぴんとたてた尻尾(しっぽ)のさきから、
糸のような みかづき がかすんでいる。
「おわぁ、こんばんは」
「おわぁ、こんばんは」
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
「おわぁぁ、ここの家の主人は病気です」
朔太郎さん、いったいどんだけ「病気」にこだわるんすか……。