ボルヘスと市と「赤」
オジギソウ
とても悲しいことですが、ボルヘスは、五十代半ばで視力をほとんど失い、大好きな読書ができなくなってしまいました。
その疾患は血筋として受け継いだものであり、あらかじめ準備されていた運命だったのかもしれません。
ミルトンやコールリッジのような詩人たちの運命について述べながら、ボルヘスは自らの運命について、次のように言います。
私も自分の運命が、何よりもまず文学的であると常に感じてきました。
つまり私の身には悪いことはたくさん起きるが良いことは少ししか起きないだろうという気がしたのです。
でも結局のところ何もかも言葉に変わってしまうだろうということが常にわかっていた。
とくに、悪いことはそうなる、と。
なぜなら、幸福は何かに変える必要がない、つまり幸福はそれ自体が目的だからです。
『七つの夜』 J.Lボルヘス著
(第七夜 盲目について)
そんな彼が、もう一度見てみたいと語った色が赤なのです。
「あの偉大な色」とボルヘスは言います。詩人があこがれる偉大な色「赤」。
詩の中でさんぜんと輝き、多くの言語において美しさ きわまりない名称をもつあの色、と彼は言うのです。
盲人(少なくともこの盲人)が、無いのをさみしく思うのは、黒と、そしてもうひとつ、赤です。「赤」と「黒」は、私どもに欠けている色なのです。
『七つの夜』 J.Lボルヘス著
(第七夜 盲目について)
これは、かつてブエノスアイレスで講演を行ったときのボルヘス自身の言葉です。
視力を失った南米の詩人の声と、同じく視力を失った日本の侠客の声とが、時間と空間を超えて重なった瞬間、私はふと思いました。
過去から未来へと、私たちの無数の生命が、鎖のようにつながっている以上、「偶然現れてくる、われわれの名前や姓など、なんの意味もないのだ」というボルヘスの言葉の真の意味が、少しだけ実感できたような気がします。
でも、私は思います。「われわれの名前や姓など、なんの意味もない」という言葉は、ボルヘスの講演内容(前後の文脈)から切り離されて、この部分だけ紹介されても、きっと誰にも正しく理解されないだろうと。
なぜなら、言うまでもなく、個人の尊厳、すなわち、われわれは一人一人が、かけがえのない存在として尊重されなければならないことは、自由主義及び民主主義を採用する社会では、自明のことがらだからです。
このことを踏まえれば、上に述べたボルヘスの言葉は、まるで「個人の人格的生存」を軽んじるかのような響きを持ってしまいそうです。
しかし、実をいうとボルヘスは、このような人権に関連する事柄とは、まったく違った観点から、まったく違うことについて言及しているのです。
この点については、とても長い説明が必要になりそうです。
これ以上踏み込んで語ると、このページの本題から大きくズレてしまうので、ヒントになると私が考えていることを、以下に二つだけ記しておきます。
「再読に耐える書物はすべて聖霊によって書かれたのである」
(バーナード・ショー)
『語るボルヘス』
J・L・ボルヘス著 ―「書物」より
遺伝子をめぐる生物学・工学がめざましく進展する今日においては、従来の言語の次元とは異なる、ある種の言語をもった遺伝子が、人間や他の生物の個体を乗り物にしながら、自らを次世代に伝えていくという考え方が提示されている。
『記号論』Pコプリー(文)/Lジャンス(絵)/吉田成行(訳)
「訳者あとがき」より抜粋して引用
何を見ても何かを思い出す、きっと。
さて、今夜もずいぶんと夜がふけました。
座頭市の「赤」。
そして、 J. L. ボルヘスの「赤」。
彼らに見せてあげたい色、「赤」。
「あのとき」以来、赤という色は、私にとっても、なんだか特別な色になってしまいました。
そして、赤という色を見るたびに、私は自分の視力に心から感謝するようになったのです。
ワンピース、映画『座頭市』、「赤」という色、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、不死性、個人の尊厳、バーナード・ショー、記号論に関する書物のあとがき……何を見ても何かを思い出す。
そう、きっと…
I guess everything reminds me of something.
夕日と彼岸花