「とにかく、素晴らしいストーリーだ。ずいぶん昔に読んだ小説を思い出したよ」
「きっと、何を読んだり見たりしても、何かを思い出すんじゃないかな、パパは」
“I Guess Everything Reminds You of Something”
E.Hemingway
わたし自身も、できることなら、何を見ても何かを思い出す人になりたいと思うのです。
ヘミングウェイの短編小説に出てくる、「何を見ても何かを思い出す」父親のように。
あるいは、巨大な図書館に住む「怪物」であり、「記憶の人」であるホルヘ・ルイス・ボルヘスのように。
ワンピースの一場面に「座頭市」の姿を見た
ある日たまたま、テレビ画面に映し出されたアニメ『ワンピース』のワンシーンに、晩年の「座頭市」の姿を見つけたときは驚きました。
座頭市、それは俳優・勝新太郎が演じる、盲目の侠客です。
(侠客とは)侠気のある人,おとこ気のある人を意味するが,日本では〈弱きを助けて強きをくじく〉と称して義侠・任侠を建前に,喧嘩賭博(とばく)を渡世とし,親分・子分の関係で結ばれていた遊び人をこの名で呼んだ。
百科事典マイペディアより引用
しかし、ワンピースに出てきた男は「座頭市」ではありませんでした。
のちに私は、その男の通称が「藤虎」(本名はイッショウ)であることを知ります。
別人とはいえ、驚くことに、この男は姿形だけでなく、性格や言葉の選び方、仕込み杖を使う居合斬りの達人である、という点まで、勝新太郎が演じた盲目の侠客、「座頭市」に酷似していたのです。
時代劇好きの私は心から望みました。これがきっかけとなり、俳優・勝新太郎と、その代表作『座頭市』シリーズが、若い人たちに広く知られることを。これまで以上に広く。できれば深く。
勝新の『座頭市』を知る
勝新の『座頭市』とは
さて、ここで、藤虎のモデルである勝新の「座頭市」について触れてみます。
『座頭市』とは、テレビドラマおよび映画における、アクション娯楽時代劇の名作シリーズであり、その歴史は半世紀を超えます。主演は名優・勝新太郎(勝新)です。
「座頭市」とは、この映画の主人公の通称です。ごく簡単に言えば、「座頭」とは視力を失った按摩師(マッサージ師)を意味します。
ただ、「市」は本人の名前ではないようです。というのも、映画中に、同じく座頭の「松の市」(演者は川拓拓三)とか、「竹の市」とか、「梅の市」とか出てきますので。謎です。
勝新の腕前を見る
座頭市は居合斬りの達人です。歩行を補助する杖の中に刀を仕込んで、諸国を旅するアウトロー(あるいは侠客)であり、音、匂い、人の気配、空気の動きなどを感じて、神速で悪人を斬るのです。
強い。とにかく強い。きみ、ほんとは目、見えとるやろ?とツッコミたくなるほど強い。
まあ、下の動画をご覧になってください。若い頃の座頭市の姿です。
あの豚さんが空を飛ぶ以外では、「カッコイイ」とは、こういうことを言うのかもしれません。
しかし、強いだけではない。弱者にやさしい。同時に、ツッコミを入れたくなるほど、おもしろい。ときに、幼い子どものようにかわいい。そして最後には、さみしい。
映画『座頭市』(1989年)は、勝新太郎が演じた最後の座頭市(晩年の姿)です。
かつて、当代一の伊達男と言われた勝新太郎です。そんな彼が若い頃に演じた座頭市は、もちろん素晴らしい。居合切りで見せる、その切れのいい動きにはうならされます。
これに対し、映画『座頭市』(1989年)には、若干年齢を重ねた座頭市の姿が描かれています。この姿もまた、私には格別の味わいがあるように思えます。映画の出来不出来ではなく、座頭市の姿に味があるのです。
この映画を見るとき、私は映画というよりも、ただただ、市の表情や動きを見ています。市のキャラクターをまるごと愛しているのです。
まだご覧になっていない、紳士淑女のみなさんはぜひ、この愛すべき「座頭の市」と出会っていただければと思います。
ご視聴の際の注意点
ただ、この時代劇映画『座頭市』(1989年)においては、アクションや筋立その他を含めて、わりとムチャな(というか、めちゃくちゃな)所も散見されます。
まあ、詳細は申しませんが、私はそこがまた大好きなのです。さすが勝新。映画も実人生もすごい。
さらに、日本野鳥の会の人たちでさえカウントできないほど、あっというまに、それはもう大勢の悪者が斬られます。
「すいません、スプラッター映画ですか?」 と思わずツッコミを入れたくなるようなシーンも多々あります。
そのような次第で、紳士淑女のみなさんは、ご視聴の際はどうぞご注意ください。(15才以下の諸君は見ないでね)
映画『座頭市』(1989年)の中の「赤」
市と絵描き浪人
さて、そんな『座頭市』(1989)ですが、この映画では、凄腕の浪人を演じている緒形拳さんと市との絡みが泣かせます。座頭市の居合斬りの腕を、偶然目撃したこの浪人もまた、その神技と人柄に惹かれる者の一人になります。
この浪人は、剣の達人であると同時に、絵を描く人でもあります。また、盲目の市の境遇に思いをはせ、涙を流すほど心が揺れやすい人です。
この豊かな感受性が、彼に言葉を与え、劇中で色彩を語らせるのかもしれません。(しかし、カッコよくて、涙もろい、芸術家肌の、剣の達人って……それはいったいなんだ?)
色について語る二人
ところで、この絵描き浪人と市が、色について語る会話の一つが、次のようなシーンの中に現れます。柿の実がなる雑木林のなかで、この浪人と市が、静かに言葉をかわします。
浪人(林の中を見渡しながら)「いやぁ、いろんな色があるなあ」
市 「赤、ありますか?」
浪人「あるある、いろんな赤がある。 赤、好きか?」
市 (はにかむように笑いながら)「ええ」
(その後、まっすぐ浪人に向き直って)「どんな色です?」
2才の時に視力を失った市には、赤という色がどんな色か、おそらくわからないのでしょう。でも、赤という色に心惹かれる。もしかしたら、幼い頃の記憶の中に、かすかな赤の残像があるのかもしれません。
赤という色は、この映画の中では、あまりにわかりやすい隠喩であり、また同時に、物語の伏線の働きをしているようにも思えます。
とはいえ、視力を失った状態で、赤にあこがれる心に、私はくぎ付けになったことを覚えています。
そして私はこのとき、あのときのことを思い出しました。
「あのとき」とは、アルゼンチンの驚嘆すべき詩人・作家である、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの講演集「七つの夜」を読んだときのことです。
博覧強記、あるいは、誰よりも「記憶の人」である、親愛なる J.L.ボルヘス。彼はいつだって、書物を通じて何かを教えてくれます。
たとえばそれは……
ブエノスアイレスの風の匂い。
あるいは、幻獣の生態。
ダンテのテクストの強度。
われわれの不死性。
「古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものである」ということ。
ボルヘスはもうこの世界にはいません。
でもそれは、ただ単に、すべてが言葉に変わってしまった、ということに過ぎません。
彼の言葉が記録されている書物が、私の本棚にある限り、いえ、彼の言葉が私の記憶の中にある限り、私は彼の教え子であり続けるのです。