おお川よ、川よ
武者小路実篤
おお川よ、川よ、
おお川よ、川よ、
お前はそんなに性急(せっかち)に流れてはいかん、
よく考えてゆっくり流れよ、
※ 現代かなづかいで表記しています。
「武者小路実篤」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年4月23日 (月) 14:45 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
(注)実篤さんです。だるまさんではありません。
カッコいい武者小路実篤
「名前がかっこいい詩人ベスト30」くらいには、毎年必ずランクインしそうな、武者小路実篤さんです。
いや、ベスト30て、中途半端な。
さて、武者小路実篤さんは、明治時代(1885年)に生まれた人ですが、21世紀の現代でも、その詩作品はもちろん、『友情』や『愛と死』といった小説でも、広く知られていますね。私も読みました。
若い時に経ておきたい読書体験、もしそういうものがあるとしたら、これらの作品が一例になるのかもしれないと、私は思います。
また、実篤さんの次の言葉は、きっとご存知かもしれませんね。
この道より
我を生かす道なし
この道を歩く。
はい、数え切れないほど引用されてきた、力強い言葉です。
実篤さん、じつは名前だけでなく、残した言葉もカッコいいんです。
そして極めつけは次の詩です。私がもっとも愛する、実篤さんの言葉です。
師よ師よ 武者小路実篤
「師よ、師よ
何度倒れるまで
起き上がらねばなりませんか?
七度までですか?」
「否!
七を七十倍した程倒れても
なお汝(なんじ)は起き上がらねばならぬ」
※ふりがなを加え、現代かなづかいを用いました。
この『師よ師よ』という詩は、弟子とその師の会話で成り立っています。
「七転び八起きくらいではまだまだ甘いぞ。倒れても倒れても、何度でも立ち上がってこい!」
このように叱咤激励する師の言葉が、この詩を読み返すたびに、私の心臓の裏側にまで届くのです。
七を七十倍した程倒れても
七転び八起きの「七」を七十倍すると490回になりますが、これは「無数」の比喩でしょうね。数え切れないほど何度倒れても、と師はおっしゃっている。
七の七十倍であろうと、七百倍であろうと、七千倍であろうと、私たちは生きている限り、転んだら、立ち上がらなければならない。
そう、私自身も。
そして、今これを読んでくれている、あなたも。
何度も、何度でも、きっと。
そう思わせてくれる、カッコいい実篤さんが、ここにいます。
(注)水墨画の達磨(だるま)大師です。実篤さんではありません。
笑わかそうとする実篤さん
さて、冒頭の詩『おお川よ、川よ』に話を戻します。
実篤さんはおそらく、川に話しかけるふりをしながら、自分自身に対する戒めとして、この詩を書いたのだろう、ということは想像がつきますね。
「なんにも考えずに、衝動的に行動してはいかんぞ、自分。事前にきちんと計画を練るとか、その考動によって生じる結果が、周囲にどのような影響をもたらすのか、とか、よぉく考えてから、行動しないとね、自分よ」
こんな感じですかね。
だがしかし……いや、ちょっと待てよ、ほんとにそんな意味があるのか?
この人、笑わかそうとして書いただけなんじゃないか?
……という疑いが生じることも、実は否定できないような気がします。
しかも、この詩、最後は読点で終わってるし。
というのも、実を言いますとね……武者小路実篤さんの詩は、あまりに素朴というか素直というか……まあ、冗談みたいなものがけっこう多いからなんですよ。
私の手元にある古い角川文庫の解説でも、荒川洋治さんがこんなことを書かれています。
だから実篤の詩は、表現や技法を凝らした現代的な詩を書く人や批評家には、どちらかというと、冷遇されている。
いわゆる詩というものから、もっとも遠いものとみなされているのである。
ただの意見を書いた詩だとも言われたりして。
『武者小路実篤詩集』(角川文庫)解説
そんな…せつない……。
でも…実際、「これがあの詩人の作品だよ」と、あらかじめ教えられていなければ、「子どもが書いたよね、これ」と言ってしまいそうな詩があるんです、けっこうな割合で。
たとえば、次のような詩。あえて、原文の旧かなづかいのまま、ご紹介します。
「しやうがない奴」とは「しょうがない奴」、「さうだ」とは「そうだ」と読んでください。
しやうがない奴
武者小路実篤
「しやうがない奴だ」
「さうだ、しやうがない奴だ」
「君がだぜ」
「さうだ、僕がだ」
いや、これ詩? 実篤さん…。
僕から見ると
武者小路実篤
僕から見ると
自分は可愛い
いや、それ、なに?
たしかに、かわいいけど…
ぜったい笑わかそうとしてるやろ、きみ。
思わず笑うヒツジ