まずは原文をご覧ください。
THE NIGHT HAS A THOUSAND EYES
― F. W. Bourdillon
The Night has a thousand eyes,
And the day but one;
Yet the light of the bright world dies
With the dying sun.
The Mind has a thousand eyes,
And the heart but one;
Yet the light of a whole life dies
When love is done.
(以下はS塾長の試訳です)
夜は千の眼を持つ
F.W.バーディロン
夜は千の眼を持つが
昼はただ一つの眼を持つにすぎない
けれども 明るい世界の光は
日暮れとともに絶えてしまう
理性は千の眼を持つが
心はただ一つの眼を持つにすぎない
けれども 全生涯の光は
愛の終わりとともに絶えてしまう
フランシス・ウィリアム・バーディロン
(1852-1921)イギリスの詩人。
この詩を素敵だと思う理由
これは、イギリス人のバーディロンさんが英語で書いた詩です。いわゆる英詩と呼ばれるものです。
『英詩読本』(荒牧鉄雄・岡地嶺共著/開文社出版/1959年初版発行)には、つぎのように書かれています。
詩の翻訳は、厳密に言えば、不可能な仕事である。原詩の味は訳詩を通すと失われてしまうものである
『英詩読本』はしがき
日本語は、音の高低よりもむしろその長短に特徴があり、英語は音の長短よりもむしろその高低(accent)に特徴がある。
『英詩読本』第一章 韻律
英語と日本語とでは、あまりに言語の構造が違いますから、これはしかたがないですね。冒頭にあげた試訳も、日本語が破綻しない範囲で、原詩の意味を表現することに努めたものです。
日本語に訳された詩と、英語の原詩とを比べると、言葉の切れやリズムが異なるため(この点については、別の回にあらためて書きたいと思っています)、両者の中に流れている音楽や、その言葉の放つ香りもまた異なります。
とは言え、この『夜は千の眼を持つ』という詩は、たとえ翻訳により、原詩の音楽や香りが失われてしまっても、人の心を打つ「詩」としての強度をいまだ保っている、私はそう思うのです。
すなわち、原詩の「意味」を写し取るだけでも、「詩」として生きる。これが、私がこの詩を素敵だと思う理由です。
では、この詩があらわす意味とは、どのようなものでしょうか。以下、くわしく見ていきたい思います。
第一連の意味
この詩は二つのパートに分かれています。このパートを「連」(stanza/スタンザ)と呼びましょう。まず、第一連を読んでみます。どうぞ、おつきあいください。
まず、夜が持つ「千の眼」とは何でしょうか。まずは文字通りに「眼」(eyes)という言葉を受け入れて、その先を読み進めてみます。
するとその答えは、第四行の「日暮れ」(the dying sun)までたどり着いて、確信できます。
あ、そうか、昼が持つ「眼」が「太陽」ならば、夜が持つ千の「眼」って、きっと夜空にひろがる無数の「星」のことだ!
もし、この「眼」を文字どおりに、生物の器官としての「眼(球)」と読んでしまうと、この第一連の意味がわからなくなります。
とすれば、このような比喩が用いられているということに、気づくでしょう。まるで謎解きですね。
このようにして、夜が持つ「千の眼」を、夜空にひろがる「無数の星」と読むことになります。
そして、昼が持つ「ただ一つの眼」とは、先ほどお話したとおり、昼の空に輝く「太陽」ということになります。
となると、こういう意味でしょうか。
夜空には無数の星があり無数の光を放っている。
これに対し、昼の空には太陽が一つあるだけで、たった一つの光しか、そこにはない。
そうですね、確かにお昼の空で輝いているのは、太陽たった一つしかありません。
けれども、その「たった一つ」の太陽が沈んでしまえば、明るかった世界の光が、すべて消え去ってしまいます。これをうたっているのが、第三行と第四行です。
このように見てくると、第一連における「ただ一つの眼」(=太陽)とは、無数の光にも勝りうる、たった一つの光ということになります。
これはどうやら、
「途方もなく大切なもの」の比喩ではないか、という気がしてきます。
第二連の意味
次に、第二連に目を移したいと思います。かなり真面目な感じで進んでおりますが、よろしいですか? なんか冗談とか言ってほしいなぁ、とか思っていませんか? 申し訳ないですが、今回は言いませんからね(笑)。
まず、理性は「千の眼を持つ」とは、どういうことでしょうか。これは、第一連に比べると、少しだけわかりやすいかもしれません。
理性(mind)を持っているのは、あらゆる生物の中で「人間」だけだと思います。と考えると、これは人の心理をうたっており、本当に「眼」と読むのではないかな、という気がしてきます。
そこで、理性は「千の眼を持つ」とは、人は理性(知性、頭脳)が働いているとき、「多数の視点から、冷静にものごとを見ることができる」と読んでみるわけです。
ここでも「千」は、「無数」や「多数」の比喩的表現のようです。
これに対し、心は「ただ一つの眼を持つ」にすぎないとありますが、心(heart)の持つ「眼」とはなんでしょうか。
心の中にあり、「理性」と対比されるものがあるとすれば、それはきっと「感情」ではないでしょうか。
とするならば、心は「ただ一つの眼を持つ」にすぎないとは、「心の中にある感情は一つだけである」ということになります。そしてその感情の正体が最終行で明かされます。はい、「愛」ですね。
すなわち、第二連は「心の中にある、たった一つの感情は愛だけなのだ」と言っているのですね。「愛がすべてである」と。
そしてさらに、この詩は言います。心の中には「愛」だけしかない。たったひとつの感情しかない。しかし、そのたった一つの感情が、もし人から完全に失われてしまったら、どうでしょうか?と。
答えは「愛」のない人生ですね。きっと私たちの全生涯から「光」がうしなわれ、真っ暗な闇が、そこに訪れるのではないでしょうか。
これが、第二連の第三行と第四行の意味ですね。
となると、第一連と同様に、「愛」は無数の光にも勝りうる、たった一つの光ということになります。
すなわち「途方もなく大切なもの」であるということですね。
このような真理は、どんな言語で書かれていても「真理」であることには変わりません。
どんなに下手な翻訳でさえ(え? 私の翻訳?)、この美しく表現された「真理」を、ねじ曲げることができません。
このような意味で、バ―ディロンさんの『夜は千の眼を持つ』には、人の心を打つ「詩」としての強度があると、私は考えるのです。
そしてさらに彼は、この「真理」を英詩の美しいリズムで表しているのですね。
この詩の要点(図解)
第一連と第二連の全体を通して、この詩全体をながめると、要点を以下のように表すことができると思います。
夜 無数の眼=無数の星
昼 ただ一つの眼=太陽
理性 無数の眼=複数の視点(思考)
心 ただ一つの眼=愛(感情)
太陽 ≒ 愛 = 唯一のもの
太陽 ≒ 愛 = 光を放つもの
太陽 = 世界を照らす光
愛 = 人生を照らす光
というわけで、
この詩のキーワードは、光(light)であろうと思います。
原詩について(ちょこっと)
ちょこっとだけ書きます。
格調は「弱強格」と「弱弱強格」の混在型
押韻は、abab(脚韻)
(各連の第1行と3行, 第2行と4行)
英詩については、機会をあらためて書きたいと思います。
シェイクスピアさん
最後に
「夜は千の眼(目)を持つ」(The Night has a thousand eyes)というこのフレーズは、あまりにインパクトが強いためか、かつてミステリ小説のタイトルして使われました。
コーネル・ウールリッチ (ウィリアム・アイリッシュ)の作品です。残念ながら、私はまだ読んでいませんが。
ウィリアム・アイリッシュと言えば、『幻の女』が有名ですね。江戸川乱歩さんが「世界十傑に値す」ると激賞した作品です。
こちらは読みました。冒頭の一文が秀逸で忘れられません。すいません、話がそれてしまいました。
さて、この話をする理由は以下に述べる一点に尽きます。
今ご紹介した、W.アイリッシュの小説「夜は千の目を持つ」を原作として、1948年に同名の映画が製作・公開されました。
そして、その映画の主題曲として同名の曲が作詞・作曲されました。この曲は、のちにジャズのスタンダード曲となります。
その歌詞を、ほんの少しだけご紹介いたしましょう。
The Night Has a Thousand Eyes
(作詞)Buddy Bernier
Don’t whisper things to me you don’t mean.
For words down deep inside can be seen by the night.
The night has a thousand eyes.
And it knows a truthful heart from one that lies.
心にもないことを、私にささやかないで。
夜は心の奥底にある言葉まで、お見通しなんだから。
夜は千の目をもっているのよ。
本気なのか、嘘なのか、わかるんだから。
(試訳:S塾長)
はい、ご覧のように、この曲と、F.W.バーディロンの原詩とは、まったく別の内容の作品です。もちろん、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。別物なんですから。
だからこそ、私が思うことは、両者が混同されることなく、人々から鑑賞されて、愛されたら、いいなぁということなのです。
その上で、ジャズと詩が手をつないで歩くなら、どんなにいいか。このフレーズを本家のセロニアス・モンクが聞いたら、苦笑いしそうですが。
まあ、私は、一人でも多くの方に、原詩の持つ味わいを知っていただきたいので、書きたかっただけです。詩は素敵です。そう、あんこがたくさん入った、たい焼きのように。
最後に、ジャズは大好きです。たとえば、モンクのピアノをいつか聞いていただきたい。それはまた別の話ですが。
さて、この記事はここまでです。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。