塾長の雑記帳

室生 犀星「誰かをさがすために」―愛の詩集を編み続けた人(プラスアルファ)

誰かをさがすために

室生犀星

きょうもあなたは
何をさがしにとぼとぼ歩いているのです。

まだ逢(あ)ったこともない人なんですが
その人にもしかしたら
きょう逢えるかと尋(たず)ねて歩いているのです。

逢ったこともない人を
どうしてあなたは尋ね出せるのです。
顔だって見たことのない他人でしょう、
それがどうして見つかるとお思いなんです

いや まだ逢ったことがないから
その人をぜひ尋ねだしたいのです。
逢ったことのある人には
わたくしは逢いたくないのです。

あなたは変わった方ですね。

はじめて逢うために人を捜しているのが
そんなに変に見えるのでしょうか。
人間はみなそんな捜し方をしているのではないか、
そして人間はきっと誰かをひとりづつ、
捜しあてているのではないか。

(表記を一部変更しています)

室生犀星さんの像

室生犀星さんの像(金沢市)

  • 「室生犀星」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年1月15日 (火) 11:32 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

室生犀星(むろう さいせい)

明治22年(1889)―昭和37年(1962)
石川県生まれ。詩人・小説家。

「誰かをさがすために」

いつの時代も、自分の足で

歩く人の後ろ足

詩人としての室生犀星の作品は、次のようなフレーズが一番有名かもしれません。

いかにも、国語の教科書に載っていそうな作品です。

ふるさとは
遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

これは、大正7年の詩集『抒情小曲集』巻頭の詩の中のワンフレーズです。

この作品も、もちろん、深く立ち入って鑑賞すれば、イイですね。かなりイイ。

でも今回は、文学の話とか詩歌の鑑賞とかは置いといて、「愛」のお話でございます。「愛」ですよ、「愛」。いや、何回も書くとけっこう恥ずかしいですが。

犀星さんが「愛」について書いた作品の中でも、冒頭にあげた「誰かをさがすために」という詩は、とくにわかりやすく、いつの時代も共感を得られるものだと思います。

この詩は、二人の人物が対話しているようにも読めるし、一人の人間が自分と対話している(つまり、ひとりごとを言っている)ようにも読めるのではないでしょうか。

いずれの読み方をしたとしても、「愛」を求めるという、人の心の根っこの部分は、明治時代も21世紀の現代も、変わらないのですね。

男も女も、自分にとっての、運命の「誰か一人」を探し求めて生きる。

その「誰か一人」が運よく見つかる人もいれば、残念ながらそうでない人もいるでしょう。

今これを読んでくださっているあなたが、もし、年若い方であるならば、インターネットが存在しなかった時代のことを、少しだけでいいから想像していただきたいのです。

現代とは異なり、たとえばSNSなどを利用して、世界中の未知の人とつながる手段がなかった時代には、運命の人を「捜しあてる」ためには、本当に自分の足で歩いて探すしかなかったのです。

たとえば、私は昭和の時代に生まれましたが、この時代は本当にそうだったのです。もちろん、お見合いや、誰かの紹介や、何らかの機関を経て、「運命の人」と出会う人もいたでしょう。

しかし、多くの人は、自分の足で外へ踏み出し、一人でも多くの人々と出会い、その中から、「誰か一人」をさがしあてようとしていたのです。

だから、そのような時代に生きた人々にとって、室生犀星のこの詩は、たんなる比喩的なものとは感じられないでしょう。私はそう思うのです。

そしてまた、現代を生きる人々であっても、最終的には、自分の足で歩いて会いにいかなければならないでしょうね。

運命の人を「捜しあてる」ためには、どんな出会い方をしたとしても、やはり、その人のところに、確かめに行かなければならないでしょうから。

あなたの後ろ姿

さみしい後ろ姿

犀星さんの「誰かをさがすために」という詩は、さみしいですね。
とくに、冒頭の一文はさみしい。

きょうもあなたは
何をさがしにとぼとぼ歩いているのです。

この「あなた」とは、この詩を書いた本人かもしれないし、だれかほかの人かもしれない。

あるいは、世の中のすべての男女のことかもしれない。

町の人ごみの中をあてもなく、とぼとぼ歩く「あなた」のうしろ姿が、ぼんやりと目に浮かぶようです。

どこへ行っても、だれと会っても、「誰か一人」を捜しあてることができない。

本当は、そんな人はいないんじゃないか?

自分はこのまま、ずっと一人なんじゃないか?

いや、ちがう! 自分にだってきっと…

そんな思いで今日も歩く「あなた」。

この詩は、そんな詩なのでしょうね。

ことばの着物

花柄の着物

ことばの後ろ姿

犀星さんは、「愛」について、すてきな詩をたくさん書きました。

ただ、現代の目で見れば、書かれた時代が古いゆえ、その詩の多くは、現代の言葉とは異なる、古い表記が用いられているのです。

たとえば、

「今日」が「けふ」だったり、
「めぐりあい」が「めぐりあひ」だったり、
「昨日いらっしゃってください」が
「昨日いらつしつて下さい」だったりします。

明治生まれの犀星さんの詩が、現代の私たちにとって、なじみにくいのはしかたありませんね。

でも、だからこそ私は、現代に生きる、とくに若い人たちに、わかりやすく伝えたいと思うのですよ。

犀星さんのすてきな「ことば」たちを。

すてきな「ことば」は古い着物を着ていても、新しく出会う読み手に対して、常に新しい感動や衝撃を与えてくれることを。

そしてまた、その「古い着物」には、現代にはない味があったりすると思うのです。

なんてね。